ここで綴る内容は、洪門の系譜を受け継ぎ、大哥(兄貴)達の教えから得た話を基に解説しております。
※当会までの系譜を確認するには、第六章をご覧ください。

第五章「祭壇に祭られる鄭成功」

2024年6月16日/本多利也 記

<オランダ軍を破った人物>

※長崎「鄭成功」記念館。中国人と日本人の間に生まれ、清と対抗し、オランダ軍を討ち払い、孫文、蔣介石と並ぶ「三人の国神」と尊敬される洪門の祖。

洪門の祭壇に、関聖帝君(関羽)と前五祖とともに祀られている人物がいる。
殷洪盛の意思を理解し、洪門の象徴ともなった鄭成功である。
彼は洪門にとって、反清復明のために何度も清と戦い、前五祖を庇護し、彼らを中国大陸に送ってくれた功績の高い人物である。
中には彼を洪門の創始者であるとする説もある。
それだけでなく、鄭成功は日本の世界史の教科書にもでてくる偉人であり、台湾でもオランダ軍を破った人物として尊敬されている。
洪門を知るには、鄭成功の半生も知っておくべきだろう。

明の滅亡後、鄭成功の父、鄭芝龍(ていしりゅう)は、明の初代皇帝、洪武帝の血を引く明の皇族の隆武帝(りゅうぶてい)を立て、清に抵抗していた。
隆武帝は南明の2代目の皇帝である。
その後、清を倒すべく北京を目指して北伐を決行するが、あえなく敗北し、鄭芝龍は清に降ってしまう。
鄭成功は、父が清に降ることに対して、必死に押し留めようとした。
しかし、父はそれを振り切って清に降り、ふたりは袂を分かつことに。
鄭芝龍は、清から台湾に渡った鄭成功の説得に当たるよう指示されるが、それを拒否。
そのため処刑されている。
最後に反清の気骨を見せた人物である。

<先賢の最後の1人>

※水戸黄門として有名な水戸藩第2代藩主徳川光圀の学問の師としても有名な「朱舜水」。

鄭成功は、その後、鄭一族の内紛を抑え、広西にいた明朝4代目皇帝、万曆帝(ばんれきてい)の第四子である南明4代皇帝・永曆帝(えいれきてい)を立て、清に抵抗した。
そして、明・永曆 12年(1658)、父同様に清を倒すべく北伐を開始。
この北伐の時に、鄭成功のもとに馳せ参じたのが、先に紹介した先賢のひとり、「朱舜水(しゅしゅんすい)」である。
朱舜水は浙江の生れ。
幼少の頃から詩書に優れ、彼が科举に合格した時、試験官に「開国以来の素晴らしい成績」と驚嘆されたという。
武芸にも優れ、文武両道の人物であった。
彼の生まれた場所、浙江は、南宋の都があった地だったため、漢民族主義や反清の意識が高い地域であった。

南宋は、漢民族の発祥地、中原にあった宋が南に下ってできた国である。
南宋の人々は、異民族によって、中原(黄河中流域)を追い出されてしまった人々である。
だからこそ、ナショナリズムの漢民族主義が燃え盛った。
その国都があったのが、浙江の杭州である。
ここに育った朱舜水は、反清グループが魯王を担いだことを知ると、いまのベトナムである安南や南洋諸国を回って義勇軍を募るが、上手くいかなかった。
そこへ鄭成功の北伐である。彼は進んで参戦した。
しかし、鄭成功の北伐軍は途中嵐に遭い、300隻の軍団のうち100隻が沈むという不運に見舞われる。
鄭成功はそれでも軍勢を立て直し、北へ向かう。
途中いくつもの城を落とすが、南京で手痛い敗北を喫してしまう。
そのため、鄭成功は巻き返しを図るため台湾へ撤退する。

<国姓を賜った大身>

※台湾・台南市中西区開山路にある、延平郡王祠(鄭成功を祀る祠)。馬の背に乗った石の彫刻は威風堂々と前方を見つめている。

当時、台湾はオランダ人が占拠していた。
1661年、そのオランダ人を台湾から追い出し、台湾に政権を打ち立てたのだ。
鄭成功はその翌年、死去。息子の鄭経が後を引き継いだ。
ちなみに、鄭成功は国姓爺と呼ばれる。
まだ彼の父、鄭芝龍が反清の息高かった頃、彼は南明の皇帝、隆武帝に謁見した。
そのとき、隆武帝は、容姿端麗で力強い鄭成功を気に入って、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。
その代わりに国姓の「朱」を賜ろう」と仰せになった。
隆武帝の姓は「朱」といい、諱(いみな)は「聿鍵(いっけん)」という。
なお、諱とは正式な名前のこと。
ただし、高貴な方を名前で呼ぶのは失礼に当たるので、その人の地位を表す言葉「帝(みかど)」と呼んだ。
日本の天皇を名前で呼ばず、天皇と呼ぶそれと同じである。
この逸話以降、鄭成功は、「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」と呼ばれるようになったという。
しかし、鄭成功はおそれおおい「朱」の姓を一生使うことはなかった。

目次第四章「洪門の始祖・殷洪盛」第六章「そして、現在の新洪門へ」