ここで綴る内容は、洪門の系譜を受け継ぎ、大哥(兄貴)達の教えから得た話を基に解説しております。
※当会までの系譜を確認するには、第六章をご覧ください。

第三章「洪門五祖の誕生物語」

2024年5月30日/本多利也 記

<祭壇に祭られる洪門前五祖>

※少林寺。中国・河南省登封県嵩山(すうざん)の別峰少室山麓にある名寺。

ここからは、少し長くなるが、洪門の成り立ちの話をしよう。
祭壇に祭る五祖誕生の話である。
時は17世紀、現在の中国。清朝・第4代皇帝・康熙帝(こうきてい)の時代。
福建省莆田県九連山中に少林寺という一寺院があった。
俗世間と隔絶したその少林寺では日々、僧侶たちが武芸の鍛錬に努め、その武勇は全国に鳴り響いていた。
丁度その頃、清に胡族(中国の北方民族)の西魯が攻め込んでくる。
その力は膨大で、清の兵力だけでは撃退することが不可能であった。
清の康熙帝は全国に勇士を求めた。
その求めに呼応したのが、福建九連山の少林寺の僧、鄭君達(ていくんたつ)。
128人の武僧を連れて、戦いの場にはせ参じる。
その強さは目を見張るもので、西魯の兵を蹴散らし、退散させたのだ。
しかし、この戦いぶりに、少林寺の拡大を恐れた清の高官、陳文耀(ちんぶんよう)と張近秋(ちょうきんしゅう)が、康熙帝に諫言をする。
もし、彼らの勢力が拡大すれば、反乱を起こしかねない。
いまのうちに潰しておくべきだと。
そして、悪事を働いて少林寺を破門になった馬福義(ばふくぎ)というものを使って、少林寺に火を放ち、その混乱をついて寺に攻め込んだ。
なお、この馬福義が破門前に少林寺内で序列7位だったことから、洪門では7はタブーの数字となっている。

混乱する少林寺、さすがの武勇をほこる僧侶たちも、その後に攻めてきた400人の清軍の前に、逃げるしか術はなかった。
そのとき、僧侶たちの脱出を助けるべく、霊神であり、少林寺の開祖である達尊爺爺(たつそんやや)が、朱開(しゅかい)と朱光(しゅこう)の二天使を遣わせる。
朱開と朱光は、黒と黄色の旗になり、少林寺の住職、五経和尚と僧侶たちの脱出を助けるが、烈火のごとく襲ってくる清軍に次々と倒され、とうとう住職と18人の僧侶しか生き残らなかった。
それでも、襲ってくる清軍。
最後は住職が盾になり、僧侶を守るが、13人の僧が殺され、生き延びることができたのは、たった5人であった。
この5人を前五祖と呼ぶ。

<洪門の勇士・中五祖>

※中華人民共和国江西省贛州市に位置する石城県。

少林寺から逃げ延びた5人は、倒された僧侶の亡骸を焼いて葬ると、身を橋の下に隠した。
そこへ船に乗った謝邦恒(しゃほうかい)と呉延賁(ごえんふん)が現れ、ことを察知し、僧侶たちを船に迎え匿った。
翌日、僧侶たちは、二人と別れるにあたり、感謝を込め、将来何かあったときに助けることができるよう、秘密の符号を与えている。
そして、5人がこの地を去った直後に、清軍の兵士がこの地に踏み込んできた。
まさに間一髪だった。
洪門が秘密結社だった時代、この秘密の符号が仲間を見分ける方法だった。
その萌芽がここにあるのだろう。

危機を脱出した5人であったが、清の追っ手は迫ってくる。
そのとき、彼らを助けたものがいる。
それが、「楊枝佐(ようじょうき)」「方惠成(ほうえいせい)」「吳天成(ごてんせい)」「林大江(りんだいこう)」「張敬之(ちょうけいし)」の5人の勇士であった。
彼ら5人の勇士は、僧侶たちを遠くへ逃がすため、身を挺して追っ手の前に立ちはだかる。
僧侶たちは、ついに恵州の長沙湾口まで辿りつく。
しかし、この長沙湾口は流れが速くて渡ることができない。
そこに再度、達尊爺爺があらわれ、朱開と朱光の二人の天使を遣わせた。
このふたりの天使は、朱開が鉄になり朱光が銅となって橋をかけ、僧侶たちを対岸に渡し、彼らは無事に石城県の高渓廟にたどり着くことができた。
ここに登場する5人が、前五祖を守った勇士として、洪門では中五祖と呼ぶ。
そして、5人の僧が辿り着いた高渓廟は洪門の聖地なる。

<双龍玉の剣と三英>

※双龍のイメージとして、京都最古の禅寺「建仁寺」に描かれる双龍図。

高深廟も安住の地ではなかった。
そこにも清の兵士は迫っていた。
5人の僧はここを逃れると、湖広の閣汪廟で、黄昌成(こうしょうせい)と妻の鐘氏(しょうし)に2週間ほど匿われることになる。
その後、僧侶たちは丁山に向う。
ここで、偶然にも、西魯を打ち破った鄭君達の妻の郭秀英(かくしゅうえい)、妹の鄭玉蘭(ていぎょくらん)、そして子どもたちの鄭道徳(ていどうとく)、鄭道芳(ていどうほう)に出会う。
彼女たちは、鄭君達の墓参りに来たという。
5人の僧は鄭君達が、清の陳文耀によって、残虐にも紅絹による縛り首にあったことを聞くことになる。
怒りに震えながら、5人の僧は、4人の遺族と共に墓参りをするのだ。

だが、この時突然、清の兵の一団が現れた。
多勢に無勢、武器も殆どない僧侶と鄭の家族たち。
その時、鄭君達の墓より桃の木で作られた宝剣が飛び出し、鄭君達の妻、郭秀英の手に握られた。
その剣の切れ味は鋭く、襲い掛かる清軍の兵の首を一太刀で落とし、悉く蹴散らした。
剣の柄頭には、「反清復明」を表す「双龍玉を争う図」が彫られていたという。

この剣で危機を逃れた5人の僧と鄭家族であったが、この剣のことを聞いた清の張近秋は軍隊を送り、郭秀英の捜索を開始した。
郭秀英はこの捜索の報を聞き、剣を二人の息子に託し、妹の鄭玉蘭とともに三合河に身を投じてしまう。
ふたりの亡骸は河を下り、ちょうど5人の僧を船に匿った謝邦恒のところに流れ着いた。これを見た謝は、亡骸をすくい上げ、河上の山稜に葬り、墓の上に一片の石碑を建てたという。
洪門では、ここに出てくる湖広で5人の僧を匿った「鐘氏」と、清軍相手に孤軍奮闘した「郭秀英」と妹「鄭玉蘭」を、女性英雄として「三英」と呼んでいる。

<洪門の勇士・後五祖>

※「湖広」中国の湖北省と湖南省にまたがる両湖平野のこと。湖南省には、自然保護区や自然公園が存在しています。

5人の僧は、清の張近秋の暴挙を聞くに及んで、遂に、彼を討つべしと決意。
張近秋の一行が通る道端の林に隠れ、不意をついて突撃し張を仕留めた。
しかし主を殺された兵士は反撃し、5人の僧侶を追撃した。
そのとき、「呉天成(ごてんせい)」「洪太歲(こうたいぞう)」「桃必達(とうひったつ)」「李式地(りしきち)」「林永超(りんえいちょう)」の5人の勇士が現れ、5人の僧を救った。
この5人を洪門では後五祖と呼ぶ。
ちなみに、この後五祖は中五祖と共に、洪門の入会の儀式では、関聖帝君(関羽)や鄭成功、前五祖と一緒に祭壇に飾られる。

その後、5人の僧は雲霄玉(うんしょうぎょく)の宝珠院(ほうじゅいん)に隠れたが、食べるものもなく、逃亡と戦いの日々で精根尽きかけていた。
しかし、それでもなんとか仲間の恨みを晴らすべく高渓廟に辿り着く。
そのとき、彼らは、陳近南(ちんきんなん)と遭遇するのだ。
陳近南は清朝の官職である翰林院学士(かんりいんがくし)だった。
彼は少林寺を焼こうとする陳文耀や張近秋の政策に反対したことによって、清を追われた。
そして、湖広の白鶴洞にて道教の研究に勤しみ、占いを稼業としていた。
陳近南は、食べるものもなく、打ち寂れた姿の5人の僧を見て、自らの家に迎え、彼らの面倒を見た。

洪門創建時に貢献があった5人の武人を「五宗」と呼ぶが、陳近南はその一人で、「宣宗」と呼ばれる。
ちなみに、洪門の符牒に「白鶴洞より来る」という言葉がある。
これは洪門メンバーが、相手が洪門であることを確かめる意味で「どこから来たか?」と質問することがある。
その答えが、この「白鶴洞より来る」である。
これは、この逸話からきたものだ。

<秘密結社の誕生>

※台湾・台東県卑南郷龍泉路にある忠義堂

陳近南の世話になった5人の僧であるが、陳から私の家では謀をするには狭いだろうからと、それほど距離の離れていない下普庵の裏にある「紅花亭」に匿った。
さらに、陳近南と5人の僧は、この「紅花亭」に「忠義堂」を設けて、義兄弟の契りを結んだのだ。
あるとき、僧侶たちが河畔に遺逞していると、河上より巨大な石の香炉が流れてきた。
その香炉の底には「反清復明」と「その重さ五十二斤十三両」と刻まれていた。
これ以降、洪門の集会場は「紅花亭」と呼ばれ、洪門の儀式で使う香炉は、これを模した「白石香爐(はくせきこうろ)」が使われるようになった。

香炉を発見した僧侶たちは、この香炉に、蠟燭と線香の代わりに木の枝と草、酒の代わりに水を供え、明を復活させ、少林寺の復讐をせんと祈った。
すると、草木は燃え上がったという。
僧侶たちから、このことを聞いた陳近南は、清を打倒すべき天命が降りたと考えた。
そして、起義(蜂起のことを洪門では起義とよぶ)を決意した彼は、密かに108人の義軍を集める。
そのなかには、三国志の劉備玄徳のような、手が腕より長く、耳たぶが肩につくほど大きな美少年がいた。
陳近南が誰かと尋ねると、自ら明の最後の皇帝、崇禎の孫の朱洪竹(しゅこうちく)だと名乗る。
紅花亭に集まった108人は、各人が指を切り、流れ出た血を混ぜ、それを各人が啜り、義兄弟の契りを交わす。
この時、南の空に文延国武という文字が現れ、東の空には紅の光が輝いたという。
これを天佑とした陳近南は、元帥旗に文延国武の文字を用い、この会の名を紅光から名付け、紅と同じ発音の「洪」を使い、洪門とした。
そして、この集まりを「洪家大会」と称した。
時は清の康熙帝の時代、康熙13年 (1674)、甲寅7月25日の丑の刻であったという。
敗走の歴史

陳近南は、朱洪竹を大将にし、蘇洪光(異名:天佑洪(てんゆうこう)を先鋒に、後五祖の5人の勇士を中軍に配置、中五祖の5人の勇士を後詰めとし戦いを挑むも、強固な清軍に破れてしまう。
洪家大全のメンバーは萬雲山に逃れ、そこで浙江省太昌府の萬雲龍(まんうんりゅう)に匿われる。
だが、ここにも清軍は攻めてきた。
この清軍に対し、萬雲龍は得意の二本の棍棒をふるって善戦するが、殺されてしまう。
ちなみに、この萬雲龍は、洪門では、創建時の功労者の武人5人(五宗)のひとり、達宗と呼ばれる。
また、先鋒を務めた蘇洪光も、同じく威宗と呼ばれている。

萬雲山も落とされた洪家大全は、敗走のさなかに大将の朱洪竹が行方不明になり、とうとう陳近南は戦いを諦める。
そして、全軍に、郷里に戻って反清復明を継続するよう命令し、各人に秘密の暗号と隠語を与え、軍を解散するに至った。
少林寺の前五祖も同じく、大陸全土に散らばり、洪門の組織を秘密裏に結成する。
これが洪門の初期の組織となる。

その後、康熙37年(1698)、蘇洪光が起義する。
彼は起義にあたって、天の時、地の利、人の和を祈念して、義軍を「三合軍」と名付けた。これが後に洪門が「三合会」「三合点」と呼ばれるきっかけとなったという。

目次第二章「チャイニーズフリーメイソンとは?」第四章「洪門の始祖・殷洪盛」