ここで綴る内容は、洪門の系譜を受け継ぎ、大哥(兄貴)達の教えから得た話を基に解説しております。
※当会までの系譜を確認するには、第六章をご覧ください。

第四章「洪門の始祖・殷洪盛」

2024年6月10日/本多利也 記

<殷洪盛という男>

※「殷洪盛」は直立省大同の太守である蒋玉によって軍事参謀に任命。彼の評判は高く、多くの人々が彼の弟子に献身。

洪門の誕生の物語の前に、その前史がある。
洪門の時代分類で説明した「梁山」「桃園」「瓦崗」「漢留」「洪門」の「漢留」である。
これは洪門の始祖と洪門という秘密結社に関する物語である。
時は福建少林寺から30年。
山西省平陽府大平県に生まれた殷洪盛(いんこうせい)という人物がいた。
若いときから義俠の人と知られ、明の最後の皇帝、崇禎帝の時代に(崇禎4年-1631)科挙の試験に合格し、3年後に明の将軍の姜驤(きょうじょう)の幕僚となる。
彼こそが洪門の始祖である。
殷洪盛が姜驤の幕僚になったとき、配下についたのが5人の青年がいる。
陝西の「蔡徳忠」、直隷宣化の「方大洪」、直隷順府の「馬超興」、山西の「胡德帝」、同じく山西の「李式開」であった。
彼らは洪門誕生の前五祖と同じ名前である。
しかし、明の崇禎4年(1641)に、あろうことか、この将軍、姜が農民反乱の首領だった李自成に投降してしまった。
そのため、殷洪盛は配下の者をつれて南京の国防大臣たる兵部尚書の「史卟法(しかほう)」を頼ることになった。
ちなみに、この史可法は、萬雲龍と同じ五宗のひとりで文宗と呼ばれている。

<孟子の尽心篇>

※中国戦国時代の儒学思想家「孟子」。「孟子の尽心」とは心のかぎりを尽くすこと。

農民反乱の首領・李自成は、西安で自らを新しい皇帝と新順王を名乗り、新国として順を建てる。
そして、明の首都である北京を奪取し、崇禎17年(1644)、崇禎帝を自殺に追い込んだ。
しかし、彼の天下もたった40日しか持たず。
明の武将、吳三桂を調略した満州族の清に攻められ撤退。
その後、農民の自衛団に殺される。
北京を蹂躙した清軍は、その勢いのまま中国を南下。
明軍も防戦したが、抗戦すべき将軍たちの内紛により次々に敗北して行く。
そして清軍は南京の史可法に迫ってきた。
そのとき、揚州の守備司令の劉肇基(りゅうひっき)が大規模な水攻めを史可法に提案する。
しかし、史可法は孟子「尽心篇(じんしんへん)」を出してこれを退ける。
孟子の尽心篇の14には以下のようにある。
「孟子曰く、民を貴しとなし、社稷(しゃしょく)之に次ぎ、君を軽しとなす」。
社稷とは国家のこと。
国家や君子より民は大切であり、多くの民を殺してしまう水攻めをしてはいけないと劉を諭した。
ここに洪門が史可法を文宗として尊敬する意味がある。
国よりも、君よりも、民を大切にする心だ。
洪門に脈々と流れる精神である。

<漢留の結成>

※江蘇省揚州市「史可法」記念館。明末の政治家・軍事家であり、その才能を明の皇帝に認められ、南京の陸軍大臣に任命さる。

しかし、清軍の大軍は揚州に襲い掛かり、史可法にも投降を呼びかけた。
だが、史可法は自害の道を選ぶ。
史可法は死の直前、身を寄せていた殷洪盛に、揚州を脱出し、地下に潜るよう命じた。
その後、揚州攻略に手間取った清軍の総大将ドルゴンは、怒りに任せて揚州を大襲撃。
十日で30万の人々の大虐殺をしたという。

地下に潜った殷洪盛は、反清の秘密結社を「漢留(かんりゅう)」結成。
その結社に参加したのが、明の大学者であり、反清の志士でもあった「傅青主(でんせいしゅ)」「顧亭林(こていりん)」「黄梨州(こうりしゅう)」「王船山(おうせいざん)」である。
ここに、もう1人「朱舜水(しゅしゅんすい)」を加え、洪門では先賢の5人と呼んでいる。
先賢とは始祖を支えた賢人という意味である。

<先賢の4人>

※先賢の5人の一人「傅青主」・明末清初の文人、画家として有名。

まず、先賢の4人を紹介しよう。
歴史的にも著名な方々である。

傅青主は文人画家・書画家、詩人であり、傳山書法が現在も世に知られている。
彼は山西の出身で、若いときから義俠心が篤く、文武両道に秀でた人物であった。
医学の臨床研究にも功績があり、彼は明が滅んでも、明を暗示する朱色の衣をまとい「朱衣道人(しゅいどうじん)」を名乗ったほど。
彼の功績に目をつけた清が、学者として数度に及ぶ招聘をするが、一切彼は受けることはなかったという。

続いて、顧亭林。
亭林は号であり、名は炎武という。
陽明学を否定し、学問は現実の社会問題を改革するためでなければならないと主張した考証学の大家である。
彼は明末に政治結社復社に参加。
その後、明が滅び、清が中国本土に侵入してくると、義勇軍を結成し清朝支配に抵抗した。
各地で流浪しながら反清活動を続ける一方で、現地調査を行い、地理や歴史の研究に勤しんだ。
晩年は幾度もの清朝の招聘も断り続けている。

黄梨州も顧亭林と同じく、考証学の大家である。
名を宗義という。
1663年には清末の革命の志士に影響を与えた『明夷待訪録』を著している。
内容は国家論を説き、独裁者による専制政治を批判し、孟子の説く民を大切にする政治を理想とした。
清末に影響を与えた『明夷待訪録』を著している。内容は国家論を説き、独裁者による専制政治を批判し、孟子の説く民を大切にする政治を理想とした。
清末には革命の志士によって「中国のルソー」といわれる。
もちろん、反清活動家であり、日本の江戸幕府に反清の援軍を要請しているほどである。彼も、清朝の招聘を断り続けた。

王船山の船山も号である。
名は夫之。湖南の出身で思想家である。
若くして反清の気骨があり、19歳の順治5年(1648) に反清挙兵を計画。
失敗し敗走するが、南明の永曆帝の下にはせ参じ、明朝復活の活動に邁進する。
清朝になっても、辮髪に抵抗し、少数民族の洞窟などを転々として隠れ住んだ。
彼は「読通鑑論」や「宋論」など多くの書物を残したが、それらにある攘夷と非満の思想は、多くの志士たちに影響を与えた。

もう一人、朱舜水(しゅしゅんすい)については後程説明しよう。

<洪門の物語が始まる>

の第14代皇帝・万暦帝の孫にあたり、史可法と馬士英らに擁立されて、南明の初代皇帝となった「弘光帝」。

殷洪盛はこうした優れた同志を味方につけ、明の福王、朱由崧(しゅゆうしょう)を守っていた明の将軍・黄得功(こうとくこう)と安徽(あんき)の蕪湖(ぶこ)で合流する。
明の福王は崇禎帝の従兄弟で、明の滅亡後、明の皇族によって立てられた亡命政府の初代皇帝、弘光帝である。
しかし、弘光帝は清軍に捕らえられ、黄得功も自害してしまう。
殷洪盛は残った2万の兵を率いて清軍と戦うが、ついに敗れ、彼も討ち死にしてしまう。
殷洪盛の死後、彼の息子の殷洪旭(いんこうきょく)と配下の蔡德忠、方大洪、馬超奥、胡德帝、李式開は、浙江の魯王のもとに逃げこむが、ここにも清軍の手が延びて来た。
魯王は明の皇族で、浙江の反清グループが神輿として担いでいた。
しかし、清軍に押され、海上から南澳方面に逃れて亡命政権を作る。

明・永暦15年(1661)、「鄭成功」が台湾を占拠し、台湾に政府を作る。
これを聞いた殷洪旭と配下の5人は、鄭成功の下に走った。
そして、鄭成功に秘密結社の「漢留」の反清構想を説いたのだ。
中国本土での反清復明に失敗した鄭成功は、この構想に同意し、この金台山明遠堂を開く。
そして、「漢留」に「天地会」の名を与え、配下の5人に中国本土で天地会の組織を拡大させることを命じた。
中国本土にたどり着いた5人は、福建の寺社にたどり着き、ここで僧侶を装って隠れ住む。
この鄭成功が、洪門創建時の5人の武人、五宗の一人、武宗である。
そして、5人が中国本土でたどり着いた福建の寺が九連山少林寺であり、この5人こそ前五祖なのである。
そして、洪門の物語が始まる。

目次第三章「洪門五祖の誕生物語」第五章「祭壇に祭られる鄭成功」